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旅行部

FLAT4
2024/11/19 18:17

幕末の京都を歩く♪ その1 ~上京区

まいまい京都のツアー、
【幕末】木村先生といく小五郎が駆けた幕末京都、「山紫水明処」貸切拝見
~幾松と出逢う花街三本木、新選組・激闘の池田屋事件、頼山陽の書斎まで~」
に参加してきました!

ガイドは私のお気に入りの、幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」学芸課長木村武仁さんが、幕末の京都をご案内してくれます。

集合は京阪電車「神宮丸太町駅」。今回は電車で行きました。


●梁川星巌(やながわせいがん)寓居跡碑

 

近年こんな説明板も建てられました。

 

漢詩人、尊王攘夷派志士の指導者。
 嘉永2年(1849)から寓居した「鴨沂小隠(おうきしょういん)」があった場所である。
 梅田雲浜や頼三樹三郎、吉田松陰、西郷隆盛らが訪ねてきた。
 幕府が日米修好通商条約に調印すると、志士と図って「戊午(ぼご)の密勅」を水戸藩や幕府などに下した。
 幕府は安政5年(1858)9月、老中・間部詮勝を上洛させ、「安政の大獄」を開始する。
 志士らの大量検挙が行われる5日前にコレラで亡くなり。「詩(死)に上手」と揶揄された。【画像左】

●頼山陽(らいざんよう)【画像右】
 江戸後期の儒学者で歴史家で、司馬遷の「史記」の影響を強く受けていた。
 新選組の近藤勇や初代総理大臣の伊藤博文が「日本外史」を愛読した。
 頼山陽は清酒「剣菱」を愛飲し、近藤勇や土佐藩主・山内容堂、水戸藩士・藤田東湖も愛飲した。


 左は頼山陽の漢詩、右は近藤勇が頼山陽の筆使いを真似て書いた漢詩。

 

●賴山陽書斎 山紫水明処(さんしすいめいしょ)
 頼山陽は、この屋敷地を「水西荘」と名付け、文政11年(1828)に書斎兼茶室を作って「山紫水明処」と名付けた。ここは見学には事前の申込みが必要ですが今回は貸し切り拝観です。

山紫水明(さんしすいめい)という言葉は「日に映じて、山は紫に、澄んだ水は清くはっきりと見えること。 山水の景色の清らかで美しいこと」という意味で、風光明媚(ふうこうめいび)な景色を表すものです。この言葉はこの風景を見た頼山陽がつくった造語だそうです。

撮影した写真はSNS掲載禁止なのでまいまい京都ツアーサイトより引用。 https://www.maimai-kyoto.jp/event/ky24d2420/
撮影した写真はSNS掲載禁止なのでまいまい京都ツアーサイトより引用。
https://www.maimai-kyoto.jp/event/ky24d2420/
撮影した写真はSNS掲載禁止なのでまいまい京都ツアーサイトより引用。
https://www.maimai-kyoto.jp/event/ky24d2420/

 

 

鴨川の向かい側から見た山紫水明処(真ん中の藁葺き屋根)。眺望がいいので右側のマンションは京都で一番値段が高いそうです。

 

 

頼山陽が見た山紫水明な景色。晴れてたら大文字山、比叡山、京都東山三十六峰と鴨川が美しく見えたはず。

 

 

ちなみに頼山陽の出身は私の母の郷里の広島県竹原市です。
竹原のまちなみ保存地区には下の像と詩碑があり、昔から私も馴染があります。

広島県・竹原観光協会サイトより引用
https://www.takeharakankou.jp/spot/19885

●花街・三本木 吉田屋跡
 このあたりは幕末維新の史跡ともいえる料亭 吉田屋があった所である。
江戸時代から明治時代初期にかけて、花街として知られた「三本木」の中にあって、幕末には桂小五郎(後の木戸(きど)孝(たか)允(よし))をはじめとする討幕派の志士たちが密会した場所として知られている。

 元治(げんじ)元年(一八六四)、禁門(きんもん)の変(蛤(はまぐり)御門(ごもん)の変)で敗れた長州藩が、その後勢力を挽回しようとして様々な秘策をめぐらし、京都に潜伏した。こうした中で身を潜めて世の動静を探っていた桂小五郎をはじめ長州藩の志士達が,吉田屋など三本木の料亭で密会を重ねたといわれる。

 新撰組など幕府方に襲撃された時には、長州藩邸(二条河原町付近)に近い方が、援軍を求めたり、逃げ込んだりするのに便利であったのであろう。また幾(いく)松(まつ)(後の松子夫人)が芸妓時代を過ごしていたのもこの三本木であるという。
 

 

●芸姑・幾松(いくまつ)と料亭・幾松の関係

 

 ①「勤王芸者」という本には、新選組が桂小五郎を捕縛するために料亭・幾松に突入したというエピソードが書かれている。

 ②料亭・幾松が建っていた場所には、江戸時代には長州藩の控屋敷が建っていたという説がある。

 ③桂小五郎と幾松が明治維新後に「木戸孝允」と「木戸松子」になってから住んだという説。

 ④木戸孝允の没後、木戸松子は尼になって「翠香院」と号し、京都木屋町へ転居した。

 ⑤木戸松子は明治19年(1886)に上京。31組上樵木町18番地の寄留所にて、胃病により病死。享年44。

料理旅館「幾松」は2020年惜しまれながら60年あまりの歴史に幕を下ろした。新型コロナウイルス感染拡大の影響による売り上げ減少が理由だという。

2020/10/21産経WESTより引用

 

●吉田屋で「薩土盟約」が結ばれた
 慶応3年(1867)5月21日、京都の小松帯刀邸で薩摩側は小松屋西郷隆盛、土佐側は中岡慎太郎、乾退助が出席して「薩土討幕の密約」が結ばれた。
 その後、土佐藩は坂本龍馬の考案した「船中八策」で大政奉還派になったという。
 しかし近年の研究では…2010年代の文献調査により、「船中八策」は明治以降に龍馬の伝記が編まれる際に創作されたという見解が有力となっている。

 6月22日、吉田屋に土佐の後藤象二郎、福岡孝弟、薩摩の小松、西郷、大久保利通らが集まり、龍馬と慎太郎も同席して「薩土盟約」が結ばれた。
 土佐藩の意向が強く反映され、「武力倒幕」から「大政奉還による平和的な倒幕」にシフトしたものだった。

●京都法政学校設立碑(立命館草創の地碑)
 明治2年(1869)、西園寺公望は自宅に私塾「立命館」を開いた。

 

 そして西園寺公望の秘書だった中川小十郎が明治33年(1900)、東三本木の料亭「清輝楼」で「私立京都法政学校」を創立した。

 

●綾瀬はるかが大河ドラマ「八重の桜」で演じた新島八重【画像左】が働いた「女紅場(にょこうば)」跡

 

【京都鴨沂高校(おうきこうとうがっこう)の前身】
 梅田雲浜の後妻「千代」やその子「ぬい」も働いていた。
 明治5年(1872)、華族や士族の子女に高等教育をおこなうために設置された。
 正式名称は「新英学校及女紅場」といい、英語や機織などを教えた。九条家の河原屋敷があった場所。
 また女子に読み書き、そろばん、裁縫、手芸などの初等・中等教育を行った機関も「女紅場」と呼ばれた。

 

山紫水明処では2グループに分け約30分滞在しましたので、1時間ほど滞在したことになります。内部の写真もたくさん撮ったのですがお見せできなくて残念です。

長くなりましたので続きます。

最後までご覧いただき有難うございました🌝。
 

関連情報URL : https://www.maimai-kyoto.jp/event/ky24d2420/

 

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