京都・伏見をあるく その3~寺田屋騒動ほか
京都・伏見をあるく その1~寺田屋
京都・伏見をあるく その2~寺田屋襲撃事件
の続きです。
伏見の寺田屋では坂本龍馬以外にも大きな事件が起きています。
余談ですがエピローグとして書いておきたいと思います。
●寺田屋騒動
文久2年(1862)4月、薩摩藩国父・島津久光【画像左】は、公武合体を目指して幕府に改革を迫ろうと千名の藩兵を率いて上洛した。
この時、薩摩藩の尊王急進派だった有馬新七【画像右】らは、佐幕派の関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義(小浜藩主)を殺害し、孝明天皇から攘夷の勅命をとりつけて千名の兵力を攘夷の軍にしようと計画した。
久光は急進派の暴発を抑えようと、文久2年(1862)4月23日鎮撫使を派遣した。
寺田屋の1階には有馬新七が「おいごと刺せ!」と言って刺されて死んだ壁が残っています。
●大黒寺(寺田屋騒動殉難九烈士の墓)
江戸時代のはじめ、この近くに薩摩の伏見藩邸が置かれた。
薩摩藩主・島津家の守り本尊「出世大黒天」と同じ大黒天が当寺に祀られているたことから、1615年に薩摩藩の祈願所となった。
寺の名前も大黒寺と改められ、通称「薩摩寺」と呼ばれた。
木曽川・揖斐川・長良川の三川治水工事の責任を取って自刃した薩摩藩家老・平田靱負(ゆきえ)の墓がある。
寺田屋騒動を知った大黒寺の檀家総代である呉服商・井筒屋伊兵衛(7代目)が手代と共に寺田屋に駆け付けた。
そして有馬新七らの遺体を、木綿で手厚く包み、大黒寺に葬った。
ちなみに呉服屋の井筒屋は明治28年に酒造業に変わり、伏見の斎藤酒造(清酒「英勲」が有名)として知られる。
寺田屋騒動殉難九烈士の墓の前に、斎藤家の墓もある。
九烈士の墓は西郷隆盛が揮毫して建てた
●伏見義民
伏見奉行の小堀政方(まさみち)が悪政をおこなったため、天明5年(1785)、町民七人衆の代表である文殊九助【画像】らが江戸に行き、決死の直訴をした。
小堀政方は罷免させられ、その後領地は没収された。
しかし町人側は関係者200名余りが厳罰に処せられ、文殊九助を含む7人が死亡(獄中死6人、病死1人)した。
これら「伏見義民」の直訴の顛末はほどなく『雨中之罐子』という義民伝にまとめ られたほか、明治20年(1887) の百年祭の際には勝海舟撰文、三条実美題字の 「伏見義民事蹟」の碑が御香宮境内に建てられるなどしています。
ということで、3つのブログになりましたがまいまい京都ツアーで伏見のことをまた勉強する1日となりました。
撮影機材
キヤノンEOS R6 MarkⅡ
キヤノンRF14-35mm F4L IS USM
Marumi EXUS PLフイルター
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