京都・伏見をあるく その2~寺田屋襲撃事件
京都・伏見をあるく その1~寺田屋の続きです。
前回はプロローグ、今回が本編のブログとなります。
14時からはまいまい京都の「【幕末】幕末研究者といく伏見、寺田屋事件・龍馬の逃走ルートを追え~奉行所襲撃、絶体絶命!家屋を蹴破り路地を抜け、船で薩摩藩邸へ~」に参加しました。
幕末、京都の南玄関として多くの船が往来する港町伏見で、大事件が起こります。おりょうの待つ船宿・寺田屋へ戻った坂本龍馬を、伏見奉行所が襲撃。入浴中だったおりょうが急を知らせ、気付いた龍馬は拳銃で応戦。しかし多勢に無勢、かろうじてその場を逃れ、家屋を蹴破り路地を抜け、なんとか濠川沿いの材木納屋へ。両手に傷を負った龍馬、絶体絶命…その時、薩摩藩伏見屋敷から船が到着。知らせを聞いた西郷隆盛は・・・!
幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」学芸課長・木村武仁さんとともに、幕末の伏見へ。寺田屋事件・龍馬の逃走ルートを追いかけます。
●幕末で伏見で起こった3つの事件
①寺田屋騒動 ②寺田屋 坂本龍馬襲撃事件 ③鳥羽伏見の戦い
●伏見とは…京都と大坂を結ぶ中継地で、京都の南玄関として栄えた港町である。
豊臣秀吉が伏見を城下町にした。
文禄年間(1592~1596)、秀吉が伏見城構築の建設資材を運び込むために宇治川の土木工事を行い、伏見港を開いた。
伏見は水上交通から陸上交通にきりかわる街道の要衝だった。
●江戸時代、伏水とも
「伏水」とは伏流水(地下水)のこと。
伏見は今でも「酒どころ」。
「灘の男酒」…硬水で辛口。
「伏見の女酒」…中硬水で口当たりが柔らかい。
●およそ洛中の大半は皆妓院(ぎいん)なり
1802年、「南総里見八犬伝」の作者・滝沢馬琴が京都に旅行でやってきた。著書に「凡そ洛中の大半は皆妓院なり」と書いている
●伏見十石舟…江戸時代に伏見の酒、米、人を運んだ。
●三十石船…旅客専用船で乗客の定員は約30人である。
江戸時代の伏見港は大坂へ向かう三十石船、京都へ向かう高瀬舟、山城に向かう淀二十石舟、宇治へ向かう芝船など千数百隻の船運で賑わった。
●伏見には、大名が宿泊した本陣4軒、家臣宿泊の脇本陣2軒、39軒の船宿があった
●龍馬とお龍の銅像(愛の旅路 銅像)
寺田屋の前には「寺田屋浜」という大きな船着き場があった。
寺田屋は2時間ごとに30名余りの客の食事、休息、入浴などの世話をしたので大忙しだった。
龍馬とお龍の旅は「新婚旅行」だと言われているが、実際は…傷を癒やす湯治旅であった。
ちなみに日本最初の新婚旅行は薩摩藩家老・小松帯刀と妻・お千賀だという。
●刀痕(とうこん)はいづこ 寺田屋 宝柱(ほうばしら)(鈴鹿)野風呂
●伏見土佐藩邸跡碑
「鳥羽伏見の戦い」の前、土佐前藩主・山内容堂は「これは薩摩・長州と会津・桑名の私闘であるから、沙汰をするまでは戦争に加わることを禁止する」と告げていた。
●寺田屋の焼失について
会津藩兵が寺田屋に大砲を打ち込み、周りも類焼したという。
●寺田屋はいつ再建されたのか?
「明治37年に再建」というのが定説になっていたが…。
慶應4年(明治元年)3月15日、信州下諏訪神社の神官が寺田屋を訪れた際、「寺田屋は休みだった」と書いている。
また同年9月19日、薩摩藩士・仁村景範が寺田屋に泊まったという記録がある。
さらに「京都維新史蹟」という昭和3年刊行の写真帳には寺田屋阯について「現今の建物は旧宅の木材をもって縮小せるものといふ」という記述がある。
■当時の資料から見た寺田屋襲撃事件
①慶應2年12月4日付け 坂本龍馬【画像左】から兄権平や家族一同宛
【現代語訳】それから船宿(寺田屋)の裏側の家の隙間をくぐり、後ろの家の雨戸を打ち破って、その家に入ると、その家の者たちは先ほどからの大騒動に驚いて、寝ぼけたまま逃げ出したようで、布団などが引きっぱなしでした(中略)。
ようやく後ろの町に出てみれば、こちら側には捕り方は一人もいませんでした。
これ幸いと五町ばかり走って逃げました(中略)
ついに横町にそれ込んで、土佐の新堀のような材木商の多い場所へ行って、町の水門から這いこんで、その家の裏になる材木の上に登って寝て隠れたのですが、間の悪いことに犬が吠えて実に困りました。
三吉氏と2人でしばらく材木の上に隠れていたのですが、(夜も明けそうな上、私は出血していて機敏に動けないため)まずは三吉氏が先に伏見の薩摩屋敷へ行って助けを求めてきて欲しいと言いました。
それで彼が出ていき、やがて薩摩の人たちと共に私を迎えに来て、薩摩屋敷に入ることができ、助かりました。
もっとも指の傷は浅手と申しましたが、動脈とやらの傷なので、翌日も血が止まらず、3日間ほどは小便に行くにもめまいがいたしました。
②慶應2年1月 三吉慎蔵【画像右】日記(長野・個人蔵)
【現代語訳】裏口の物置を斬り抜け、二つの家の戸締まりしている扉を斬り破り、破壊のお詫びの挨拶をして小路に逃れ出て、しばらく二人とも息を休めた後、また走って逃げました。
途中に寺があり(この寺が油掛地蔵の西岸寺、西教寺、興禅寺のいずれかだと思われる)、囲いの塀を飛び越そうとしましたが、近くに多くの探索者がいる様子であり、道を転じて川端に材木の貯蔵所があるのを見つけて、その棚の上に登って隠れました。
西岸寺
西教寺
興禅寺
2人はそこで種々死生について語り合い、「もはや逃げ道はありません。ここで割腹し、敵の手にかかる恥辱を免れましょう」と言うと、坂本氏曰く、「死は覚悟の上だが、今から君が伏見の薩摩屋敷へ走って助けを呼んで来て欲しい。もし君が途中で敵に出会えば、その時はそれまでだ。僕もまたここで死ぬほかない。夜明けも近づいてきたので一刻の猶予もない」と言いました。
坂本氏の言葉に従い、直ちに川端に降りて着物に付いた血を洗い、草履を拾って旅人の姿を装い、走っていきました。
そのうち伏見の町は店を開く所もあり、これは急がねばと2町余りも行きました。
幸い商人風の人に出会ったので薩摩藩邸のある場所を尋ねると、この先一筋路で3町余りだというので、すなわち薩邸に走りつけたのです。
藩邸では留守居役の大山彦八(大山巌の兄で薩摩藩士)が出迎え、「昨夜の様子は坂本氏の妾が注進(報告)に来た。行き違いなどがあってはと心配していたが、ここに逃げ込めたとは幸いだ。今すぐ坂本氏は無事に連れ帰りましょう。三吉氏はこの藩邸に留まってください」と言い残し、大山氏自ら舟に薩摩藩の印を立て、有志3名と舟を動かして、坂本氏が隠れている材木の棚まで行って、迎えて帰ってきたのです。龍馬の帰還に藩邸の一同は歓声を上げました。
●龍馬が隠れた材木小屋跡碑
実際の材木小屋は対岸の左岸南方のこの写真のほぼ中心の工場あたりにあったと思われる。
●寺田屋登勢の墓 松林院墓地
夫の寺田屋伊助は元治元年(1864)9月に病没した。
龍馬が寺田屋を定宿として利用するのは伊助の没後だと思われる。
慶応元年(1865)8月頃から、龍馬は伏見の寺田屋を定宿とした。
登勢は龍馬に頼まれるままお龍を養女分(名はお春)とし、その家族の面倒を見た。
龍馬は登勢を「学問ある女、人物なり」と絶賛している。
●薩摩伏見藩邸跡(龍馬が保護された薩摩藩邸)
現在は松山酒造(株)。
幕末までは、大名本人の京都での宿泊は許されておらず、京屋敷では休息のみで日帰りしなければならなかった。
よって薩摩藩の場合は、伏見屋敷がその宿泊所となった。
島津斉彬【画像左】は安政元年(1854)2月21日、参勤交代で鹿児島から江戸に向かう途中、伏見藩邸に宿泊した。
翌日、近衛家に挨拶するために入京した。
篤姫【画像右】を近衛家の養女にしてくれたお礼のためである。
西郷隆盛や大久保利通も伏見藩邸によく出入りしていた。
薩摩藩二本松屋敷に逃げ込んだ御陵衛士が安全のため伏見屋敷に移された。
ここから墨染に向かう近藤勇を銃撃した。
鳥羽伏見の戦いで、会津藩の白井五郎太夫率いる大砲隊が火を放って焼失した。
次回はもう一つの寺田屋騒動、伏見の歴史について書きます。
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