幕末の京都を歩く♪ その2 ~上京区
まいまい京都のツアー、
「【幕末】木村先生といく小五郎が駆けた幕末京都、「山紫水明処」貸切拝見
~幾松と出逢う花街三本木、新選組・激闘の池田屋事件、頼山陽の書斎まで~」
の続きです。
TOP画像は桂小五郎(木戸孝允)です。
日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。号は松菊、竿鈴。 明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。
木戸孝允旧邸跡地には3つの建物がそれぞれ建ってます。それほど敷地が広かったということです
●木戸孝允 臨終の家
明治2年(1869)、木戸が近衛家の下屋敷「河原御殿」を譲り受けて別邸にした。
北から九条家、鷹司家、近衛家、有栖川宮、角倉家と別荘が立ち並んでいた。
明治10年(1877)5月19日、明治天皇が病気療養中の木戸を見舞った。
見舞いに訪れた杉孫三郎や山尾庸三らに「西郷もまた大抵にせんか。予今自ら赴きて一たび説諭すべし」と言ったという(「松菊木戸公傅」)。
九条家の茶室・拾翠亭に通ずる建物である。
近衛家の建物の一部は、北区の新村出邸に移築されて現存している。
●木戸孝允の子・忠太郎の「達磨堂」
禁門の変後、桂小五郎は出石出身の小間物商・広戸甚助の助けを借りて、但馬国出石に逃げた。
出石では広戸甚助の弟・直蔵の助けを借りて、城下に荒物屋を開店した。
木戸忠太郎は南満州鉄道の経営する鉄鉱山で働く地質学者で、86年の生涯を終えるまでの50年間、達磨集めに没頭した。
達磨堂は大正12年に新築された。
木戸孝允 臨終の家、達磨堂は今年の9月まで一般公開していましたが現在は閉鎖されています。京都市に寄贈されるようなのでまた公開されるのが楽しみです。
●舎密局(せいみきょく)(理化学研究所)
舎密とはオランダ語で「化学」を意味する言葉「シェミー」を漢字で書いたもの。
京都府参事・槇村正直や京都府顧問・山本覚馬は、舎密局や勧業所、織物工場、集書院などを作った。
ここで石鹸、氷砂糖、ビール、ラムネ、リモナーデ(レモネード)、陶磁器、硝子、漂白粉などが作られ、写真術も教えた。
明治14年(1881)北垣国道が京都府知事になると廃止され、施設は民間に払い下げられた。
●明石博高(あかしひろあきら)
薬種商の子で蘭方医。
明治2年(1869)、大阪舎密局に御雇い外国人のハラタマ、ボールドインらを招いて、ハラタマの助手を務めた。
明治3年、京都舎密局の設立に尽力し、主任や局長を務めた。
明治5年、寄付金を集めて療病院を設立した。
明治14年、京都舎密局が廃止されると、私財を投じて救おうとする。
厚生病院の院長を務めて無給で働き、貧しい患者からは診療費を取らなかった。
●法雲寺
久坂玄瑞【画像右】が謹慎した寺
文久2年(1862)、久坂玄瑞や寺島忠三郎らは長州藩重臣・長井雅楽を殺害しようとしたが失敗、法雲寺で謹慎した。
脱藩中だった吉田稔麿も自首後、ここで謹慎した。
本堂や書院、庫裏は幕末当時の建物である。
●善導寺門前
島田左近【画像左】遭難の地
島田左近は公家・九条家の諸大夫で、京都で天誅された第一号の人物である。
彦根藩士・長野主膳と仲が良く、「日米修好通商条約の勅許問題」「将軍継嗣問題」「安政の大獄」「皇妹・和宮の降嫁」に暗躍し。勤王の志士から憎まれていた。
1万両の賄賂を受け取り。「今太閤」と呼ばれたという。
文久2年(1862)7月20日の夜、薩摩の田中新兵衛ら3人に襲われ、島田は善通寺(竜宮門の寺)門前で首を刎ねられた。
●島津創業記念館
初代・島津源蔵【画像左】 二代目・島津源蔵【画像右】
薩摩藩の島津家との血縁関係はありません。薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際、 惣兵衛は領地の検分などに尽力し、その誠意に対する感謝の印として、義弘公から"島津の姓"と"丸に十の字(くつわ)の家紋"を贈られたと伝えられています。
●山縣有朋別邸 第二無鄰菴(むりんあん)
「無鄰菴」と名付けられた山県の屋敷は3つあり、最初の無鄰菴は長州・下関に作られた。現在は「がんこ高瀬川 二条苑」になっている。
第三無鄰菴は京都南禅寺の参道前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」が行われた。 第三無鄰菴は七代目小川治兵衛が作庭。
●高瀬舟 一之船入(たかせがわいちのふないり)
高瀬川に附属して作られた浜地(船を接岸させるための入り江)である。伏見にある三栖浜(宇治川との合流点)から積荷を満載して人力で曳き上ってきた高瀬舟がこの浜で荷を陸揚げし、船を方向転換させた。」
奥行き92m、幅12m
●前田又吉像と伊藤博文像
前田又吉(1830~93)は大阪生まれの実業家。明治元年、神戸界隈に料亭「常磐花壇」を創業し、明治6年に諏訪山に移転。
明治21年、ここ河原町御池に「常盤ホテル」を開業。現在はホテルオークラ京都になっている。
●前田又吉銅像記碑(明治二十六年十月 伯爵 伊藤博文 撰印)
●木戸孝允像
かつて長州藩の藩邸があった京都ホテルオークラの北西角、市役所側の通りに銅像が建てられています。長州の代表として薩長同盟を結び、明治維新の三傑の一人として知られています。大きく立派な像で、凛々しい姿をした銅像です。
●長州藩邸
慶長の末に藩邸を設けた。
禁門の変で、京都留守居役の乃美織江が火を付けて退却した。
明治4年に勧業場、18年に府立画学校、その後洋風の常盤ホテルになった。
●長州藩邸の立地
三条大橋(東海道五十三次の終点)、高瀬川の一之船入がほど近く、御所からも約2.5キロだった。
●池田屋騒動之跡
「池田屋事件」は、1864年(元治元年)6月5日に京都で起こった、「新撰組」による尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を守るために外国勢を排除する思想を持った一派)弾圧事件です。多くの浪士が殺害され、これにより明治維新が5年遅れたとも言われています。今は飲食店が建っていて繁盛しています。
出動隊士34名を、10名の近藤隊と24名の土方隊(と井上源三郎隊)に分けて探索した。
一時池田屋の場所はお店の右にずれた場所にあったと金属プレートが埋め込まれましたが、現在の説ではやはり石碑がある場所に池田屋はあったと言われています。
桂小五郎は維新後、自らの談話で、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬(つしま)藩邸で大島友之允と談話しており難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気づいた桂は、現場に駆けつけようとしたが、大島に制止されたため思い留まったと、と語っています。
ただし、鳥取藩士・安達清風の日記によれば、大島は事件前の5月28日(7月1日)に京都を離れ、6月5日(7月8日)の当日には江戸におり、桂小五郎の話には矛盾があるようです。
当時京都留守居役であった乃美織江(のみ おりえ)の手記には、「桂は池田屋から屋根を伝って対馬藩邸に逃げ込んだ」とあり、藩士の中には桂を「臆病者」呼ばわりする者もいたようです。桂も会合に出席していて、いち早く逃げた可能性は高いといえるでしょう。
現代では様々な桂小五郎の紹介に、「逃げの小五郎と呼ばれていた・言われた」と述べられることがよくあるが、存命中や死後に残された記録・史料にそういう記述は確認されていない。後世の、司馬遼太郎の小説の題名から「逃げの小五郎」と呼ばれるようになったようです。
17時前にツアーは解散となりましたが、もう日は暮れて暗くなっていました。
長州藩邸に近く、維新志士たちが駆けた三本木から三条木屋町まで。
幕末激動の舞台をめぐりました。
撮影機材
キヤノンEOS R6 MarkⅡ
キヤノンRF14-35mm F4 L IS USM
Marumi EXUS PLフイルター
最後までご覧いただき有難うございました🌝。