9/26-27と友人の住む長野県は小布施へ行ってきた。
別便で小布施旅の共有をしているけど、もう少し小布施の素晴らしさを踏み込んでみたい。
小難しい話しを長々と書いているが、街のあちこちに分散したそれぞれが特徴ある博物館が点在し、その街なかはコンパクトな市街で市民の自宅の庭がオープンガーデン化されてコンテンツとして成り立っていたり、それをむすぶ栗の木を埋め込まれた素敵な「栗の小径」が縦横に繋いでいて、市民の生活圏と観光動線がうまく融合していて兎に角居心地が良い。
自分の住まいのある小田原と高松も古い城下町で、コンテンツが散在していて、そのコンテンツを結ぶ道路上や高松の日本最長の商店街に小規模な飲食店やショップがまぁまぁ歩ける距離に点在しており、とても良く似ている。観光地として住民の何十倍もの観光客が押し寄せて、住民に迷惑がかかることもあるけど、観光客はそれなりにお金を落として経済貢献してくれるし、それを受け止める個人事業主の栄枯盛衰がうまく噛み合っていて、共存できる環境になってるのが、素晴らしいな、と思う。
また、小田原と高松には住んでみて思うが、非常に住みやすいし、コンパクトながら日々飽きずに暮らせる素晴らしい街。小布施もそんな町なんだろうと思い、この町を終の棲家に選んだ友人を改めてリスペクトした。
アイキャッチ画像は、歌川広重の燕を描いた浮世絵。北斎の絵も浮世絵も「生物×植物」の構図が多く、江戸時代からこんなに細かく生物や植物を切り取って描いている切り取り方が本当にすばらしい。北斎館や高井鴻山記念館には彼らや北斎の弟子の多くの作品が見られて、いつまでも居られる感じ。笑
◆ 観光地としての小布施の成り立ち
小布施がどうやって、観光地として今の街を作ってきたか、振り返ってみる。
次のとおり、市街の住民と住宅を巻き込んで、市街地を観光地化することに成功しているが、後の町長となる市村氏の強烈なリーダーシップと市民の巻き込みがあったからと思う。
1. 1970年代:コンテンツの点(Zero to One)の創出、北斎館の開館
1970年代以前の小布施は、江戸時代からの特産品である「栗」の産地という認識はあったものの、全国的な観光地ではなかった。転機となったのは1976年の「北斎館」開館だ。これがグロース・マーケティングにおける「強力なキラーコンテンツの投下」となった。
晩年の葛飾北斎が小布施に滞在し残した肉筆画という歴史的資産をフックに、美術ファンを中心に外部からの観光客が流入し始めた。
2. 1980年代〜1990年代:面への展開(プラットフォーム化)
北斎館への集客を、町全体の回遊エコシステムへ転換したのが、1980年代から始まった「町並み修景事業」だ。市村良三氏(後の町長)や市村次夫氏(小布施堂)ら民間による強く主導した事業開発の傑作と言える。
・「保存」ではなく「修景」
古い建物をそのまま残す(保存)と住民の生活が犠牲になり、町がテーマパーク化してしまう。そこで、現代の生活に合わせつつ外観を周囲と調和させる「修景」を選択した。ストックビジネスの価値向上にも通じるリノベーション思考だ。
・境界の曖昧化
北斎館周辺に栗の間伐材を敷き詰めた「栗の小径」を整備するなど、公用地と私有地の境を曖昧にし、歩行者の回遊性を高めた。これにより、「点」の集客が「面(町全体)」の滞在へと昇華した。
3. 2000年代:C2Cモデルの導入と集客のピーク
2000年には、町並み修景の精神(外はみんなのもの、内は自分のもの)が究極の形となり、「おぶせオープンガーデン」がスタートした。一般民家の庭(現在約130軒)を観光客に開放するこの取り組みは、行政のハコモノ投資に頼らない、住民資産の観光化である。
・統計データ
2000年頃には、北斎館単体で年間約40万人の入館者を記録。町全体の年間観光客数は100万人〜120万人規模へと成長し、人口1万人の町としては驚異的な集客プラットフォームが完成した。
4. 2020年代(現在):LTV重視・関係人口創出への方向性を変える
直近(2021年〜2026年)のデータでは、累計来訪者数が安定している一方、季節変動の激しさが浮き彫りになっている。
・ピークと閑散期の差
最高は2025年10月の12.1万人/月(栗シーズン)、最低は2021年1月の1.1万人/月。
・ピーク時のキャパオーバー(観光公害)
推測だが、秋の異常なピーク時の交通渋滞やキャパシティオーバーは、住民の生活満足度を下げる「オーバーツーリズム」の限界点に達している。そのため、現在の事業責任者(町長・自治体トップ)は、マスツーリズムでの「単純な新規顧客獲得」から、「小布施バーチャル町民会議」などの施策を通じた「関係人口(LTVの高い優良顧客・デジタルパートナー)の創出」へと戦略を大きく方向性を変えている。
【結論】
小布施の観光戦略は、1976年の「北斎館」開館で強力な集客のフック(点)を作り、1980年代以降の「町並み修景事業」や2000年からの「オープンガーデン」によって町全体を回遊させるエコシステム(面)を構築した歴史的成功例である。人口1万人に対し年間120万人の集客を達成した現在、秋のオーバーツーリズムという課題に対し、マス集客から「関係人口創出」による持続可能なモデルへの転換を図っている。
◆ 北斎と高井鴻山(こうざん)のストーリー
天才クリエイター北斎と若きエンジェル投資家である高井鴻山の出会いと北斎が最後の大作を描いた時期を振り返ってみる。このストーリーを、小布施の町では、街なかを歩き、博物館を覗き見ることで、大量の作品とともに楽しむことができる。
第1幕:閉塞感の中の出会い(江戸)
時は天保年間(1842年頃)。幕府の「天保の改革」によって質素倹約が強要され、江戸の出版・芸術界隈は強い閉塞感に包まれていた。そんな中、江戸へ遊学に来ていた小布施の若き豪商・高井鴻山(当時30代)は、世界的名声を誇るものの、自由に絵が描けない環境にフラストレーションを抱える天才絵師・葛飾北斎(当時83歳!)と出会う。鴻山は北斎の圧倒的な才能と熱量に完全に惚れ込んだ。
第2幕:小布施へのインビテーションと環境提供
「先生、江戸が窮屈なら、私の地元へ来ませんか。資金も場所も全て提供します」。鴻山のこのオファーに応え、北斎は83歳という高齢にもかかわらず、江戸から約250kmの道のりを歩いて4度も小布施へ向かう。鴻山は彼のために「碧漪軒(へきいけん)」という専用のアトリエ(開発環境)を新築し、衣食住の全てをパトロンとしてフルサポートした。
第3幕:マスターピースの創出
最高の制作環境(作業環境や画材、高価な絵の具、住居に食事など)と無限の資金を得た北斎は、大量生産の版画(浮世絵)ではなく、一点物の「肉筆画」に没頭する。その結果生まれたのが、岩松院の天井絵「八方睨み鳳凰図」や、小布施の祭屋台の天井絵だ。北斎は80代から90歳で亡くなるまでに計4回小布施を訪れ、その最晩年の熱量を作品に叩き込んだ。そして、この時生み出された「肉筆画」という唯一無二のマスターピースが、130年後の1970年代に「北斎館」として結実し、現在の小布施観光のコア・エンジンとなっている。
面白くないですか???(自画自賛ww)
ちなみに、北斎をテーマに観光を盛り上げる自治体は他にも3つあって、墨田区は「すみだ北斎美術館」がインバウンドを集めてるようだし、島根の津和野は「葛飾北斎美術館」×小京都というブランディングで集客している。富士市は北斎が描いた町を前面にプロモーションかけてたり、どこも、行ってみたい〜 笑

ミュートしたユーザーの投稿です。
投稿を表示凄く分かりやすいです。
そして、なんだか懐かしい小布施🥹
もう1週間が経ってしまいました😊