江戸時代の大名である相馬中村藩(相馬氏)、磐城平藩(内藤氏、安藤氏)、「高速参勤交代」のモデルとなった磐城湯長谷藩(内藤氏)等々が参勤交代で使用したのが陸前浜街道。それは今の東京から宮城県仙台市を結ぶもの。
この街道はその後、国道6号線になり時代の流れとともに旧国道へと名前を変えバイパスという名を経て新国道6号線へと観光と生活同線を考慮されて発展してきました。このような開発はここだけではなくその他の地域でも同じこと。
2011年3月。地震と津波と原発事故が発生した「東日本大震災」。
リアルにプレイバックする方もいると思うので詳細は割愛します。
介護帰省で帰郷することがあったので足を伸ばして「1F」と呼称される建物の周辺に行ってみた。
この公園はかのポイントより5.7キロほど。
東日本大震災・原子力災害伝承館なども併設しております。

2026年9月現在、放射線量の問題で双葉町、大熊町、浪江町、富岡町、葛尾村、飯舘村、南相馬市の一部または全域は未だに帰還困難区域となっております。
この公園より車で15分ほど保存されている小学校に移動。

この小学校の2階ベランダ右の看板がお分かりだろうか?
下の写真がそれになります。

津波の到達ラインです。
中に入り写真も撮れますが、私には出来ませんでした。
他にも津波で半壊した家等も補強を入れ存続させているようです。
遠目に見ると周囲は広い敷地となっている。

小学校の周辺には家屋が無い。その代わり丈のある草原が土地を占有しております。と言うのもそれなりの理由が・・・・。
そしてこの地域を襲った悲劇は地震と津波だけではありません。
住民が突然帰宅できなくなった事故も。

30分ほど走って現れるのがこの建物です。事故を起こした原子力発電所の廃炉の現状とその手法を分かりやすく展示、解説しております。東京電力廃炉資料館。

全貌はこの通り。原子力および科学の発展に大きく貢献した「アルバート・アインシュタイン」、「マリ・キュリー(キュリー夫人)」、「トーマス・エジソン」の3人の生家をモデルにして建造されたとのことです。
この辺りは2026年10月現在であっても放射線の影響で帰宅困難区域となっております。時間的制限と許可が必要になります。

左に入ると1Fへ通じる道となります。小学校周辺同様に雑草もカットされておりません。

国道より逸れる道はほとんどバリケードで遮断されております。(停車して撮影しましたよ)
この後、この国は北海道でも、北陸でも九州でも地震あるいは津波の被害、さらには各地で豪雨の被害を受けることとなる。国全体で考えると10年間何もないはありえない。
伝承とは・・・・
「二度と同じ悲劇や教訓を忘れないように、現地の現状や事実を記録し、引き継いでいくこと」
となっております。
古い順での伝承方法は・・・
口頭で→文書で→石碑で→写真で→動画で→補強予算の続く限りそのもので・・・というのがフローと考えます。
しかし、以下の通りデメリットもあり変化もしてきました。
口頭では忘れられ、途中で変化する。
文書でも口頭と同じことが考えらえる。
石碑は風化し不明瞭になる。
写真以降の伝承は比較的新しいく問題はこれから。
原発事故関連の被害については、発電はしていないもののウランは冷やし続けなければならないため稼働させ、箱物として修繕を入れながら存続の必然性が考えられる。
街道は冒頭の通り生活の拡大とともに海寄りに近づいていきましたが、震災を機に新国道が大きく内陸方面に移動しております。前出の陸前浜街道は過去の津波で被害がなかったところに設置されていた。とされているため回帰しているようです。
テクノロジーとともに利便性を追求したものとなったが非常事態には対応できず、回帰もあるものなのだと考えました。地球規模の時間の中では我々の時間などは微々たるもの。伝承はその時々の解ではなく最適解なのだと改めて感じた。

う~ん。硬い文章になってしまった。
ミュートしたユーザーの投稿です。
投稿を表示震災から7年後に、東松島近辺を通りました。
周囲の時間が過ぎていても、被災地は時間が止まった様に復興が進んでいない様に感じたのを、覚えています。
海岸沿いの鉄道は高台移転し、災害遺構の様な感じで被災した鉄道駅が残されていましたのを見ました。
駅舎の一階のファミマの店員さんが、遺構の解説をしてくれました。
当時周辺は整備中だったので、今はだいぶ変わっていると思いますが、また訪れてみたいです。