スバぞうでございます🐘
先週から開始した群馬ではなく東京のルーツをたどるおはなしの2回目になります
(今週は土曜日公開となります)
前回のおはなしはこちら
第2章 武蔵野工場の建設
前回お話したとおり、日本陸軍は中島飛行機に対し陸軍専用エンジン工場の建設を指示します
その場所は武蔵野
西荻窪の東京製作所から西に4kmほどの場所でした

なぜ武蔵野?
東京工場に近く、所沢にあった陸軍の飛行場にもアクセスが良いなどありましたが、一説によりますと、当時の社長中島喜代一(知久平の弟)の妻が占いに凝っており、「その場所にせよとのお告げがあった」と夫に伝えた事😅も大きく影響したそうです
1937年(昭和12年)の春頃土地の買収交渉が始まり、当時3~4円/坪が相場の土地に11円/坪を提示し、ほとんどが農地だったこともあり夏までに約7万坪の買収・賃借がまとまったそうです
買収完了から間もなくして敷地7万坪、建物2万坪、費用550万円の一大プロジェクトが始まりました
工場の施工は群馬本工場と同じ大倉土木(現大成建設)
当時の大倉土木の年間工事額が50万円程度だったそうですから、とんでもない規模でした😱
陸軍の指示で半年で仕上げることが至上命題とされ、現場には24時間トラックがひっきりなしに出入りしていたそうです
翌1938年(昭和13年)4月に一次工事が完了し、まだ建設中にも関わらず生産設備が搬入され武蔵野製作所エンジン1号機を完成させたそうです
完成した武蔵野工場は立派な時計塔がシンボルとなった本館と平屋の工場で構成
海外視察先の工場をモデルにしたその建物は地域のシンボルとなりました。

武蔵野製作所完成により陸軍の生産は飛躍的伸びましたが、海軍がそれを黙ってみているはずもなく、武蔵野製作所完成の翌年である1939年(昭和14年)に群馬県に小泉製作所(機体)、新たなエンジン工場として多摩製作所の建設を指示します
機体を製造する小泉製作所は現在大泉町にあるパナソニック(旧三洋電機)の場所に建てられましたが、エンジンの多摩製作所の場所は、なんと陸軍の武蔵野製作所の隣でした
1941年(昭和16年)10月に完成した多摩製作所は、平屋の武蔵野製作所とは異なり地上3階、地下1階の鉄筋4層構造でした

二つの工場の間には高い塀が設けられ、互いの情報は一切漏らさない徹底ぶりだったとか
(陸軍と海軍のバチバチ具合が伝わってきます)
また、設計部隊も完全に分離し、それぞれが専用部品を作ったため製造側(特に部品メーカー)は苦労したそうです😰
そして同年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃によって第二次世界大戦が勃発します
当時の中島飛行機は日本の屈指の航空機製造会社でしたが、当時はまだ成長過程でありアメリカ人技術者からも教えを乞う状況でした
開戦の一報を聞いた中島飛行機の優秀な技術者は、日米の実力差を嫌というほど認識していたことから絶望の淵に追いやられたそうです😣
それでも一分の望みに託して仕事全うしました
同じ敷地内に陸軍の武蔵野製作所と海軍の多摩製作所が隣接する状況は戦争が始まっても継続していました
また、当初優勢だった戦況も次第に劣勢となり、継続していた日中戦争と合わせて猛烈な消耗戦となり、軍からの要請に従う形で、埼玉県大宮市(当時)や愛知県半田市に次々と工場を建設します
また1943年(昭和18年)には武蔵野・多摩工場に政府の行政査察が入り、非効率な生産に対して生産倍増命令が下されました
それを受ける形で2つの工場は合併し、武蔵製作所が誕生
高い壁は取り払われ、旧武蔵野製作所は東工場、多摩製作所は西工場に改称されました


すると皮肉なことに生産効率が飛躍的に高まり、本当に生産能力が倍増したそうです
アイキャッチ画像の栄エンジンは中島飛行機の隼や三菱重工業の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)向けに大量生産されました
※ゼロ戦の半数以上が中島飛行機でOEM生産されたものだという事はあまり知られていません💦(SUBARUがトヨタGR86を作るみたいな😅)
拡大を続ける中島飛行機ですが、創業者である中島知久平は更なる驚愕の計画を進めていました😲
つづく
※参考資料:武蔵野市 中島飛行機武蔵野製作所
ミュートしたユーザーの投稿です。
投稿を表示おはよーございます!大雨ですな☂️☔️🌧️
スバぞうさん うんちくファンの平蔵でございます😃😃
あのゼロ式のエンジンが中島製とは!
びっくりしちゃったー‼️
大人しく読んでたのに、驚きの声が出ちゃったよー😳🫢
「つづく」と、あったので、③ とても楽しみです!
にゃはは〜