スバぞうでごわす🐘(たまには変化😅)
全国87人のうんちくファン(推定)の皆様、いかがお過ごしでしょうか😍
またまた連投となりますが、一応日を跨いでおりますのでお許しください😅
SUBARUの前身、中島飛行機の東京工場の歴史をたどるおはなし
3回目の今回が最終回になります
順番に読みたい方はこちらから👇
第3章 幻の三鷹研究都市構想とその後
前回は1943年(昭和18年)武蔵野製作所と多摩製作所の合併までお話しました
時を少し戻し、皆さまお待ちかねの?三鷹のお話をしましょう
西荻窪の東京工場(製作所)、武蔵製作所と急速に拡大した中島飛行機ですが、当時経営の一線から退き政界に進出していた中島知久平は、日本の航空産業発展を願い壮大な計画を立てます
それは…
研究都市構想です
聞いたことありますよね?茨城県筑波市にそういったものがありますし、最近では大手自動車メーカーにより富士の裾野にウーブンシティなる似たようなものが作られました🤩
中島知久平は三鷹に60万坪、200万㎡を超える土地の買収を指示します

これは東京ディズニーランドとディズニーシーをあわせた広さの約2倍です!
という事で、TDR(ランド&シー)と東京ドームを並べてみました

その用途は「研究所」でした
どうして工場でもない研究所にこんな広い土地が必要なのか?
との周囲の問いに対し、知久平は
太田、小泉、荻窪、武蔵野に分散した機体やエンジンの技術者を一堂に集め航空技術の研究を行い、先進技術を織り込んだ試作機を造り、南西にある調布飛行場(1938年完成)まで専用道路を作って運ぶ
という壮大な計画を打ち上げます
更に航空分野だけではなく、政治、経済など国内外の学者を集めこれからの国家造りの拠点とし、更には生活するための住宅も作るという、一企業の枠を超越した国家プロジェクト的なものでした
昭和10年代半ばの話ですよ!まだクルマもろくに走っていない時代です
広さも構想もスケールデカすぎでした!
また、単なる研究所ではなく自然豊かな環境を活かし人々の心も癒す施設(広大な公園等)の併設も計画されていたそうです
1940年(昭和15年)から土地の買収が始まり、翌1941年(昭和16年)の年末に起工式が行われます
その日(12月8日)が偶然にも開戦日(真珠湾攻撃の日)と同じだったのは運命のいたずらか…
建設は進められたものの、戦況悪化に伴う資材不足の影響で、1944年に本館と試作工場が完成したところで軍の意向により工事は中断
以降再開されることなく終戦を迎え、中島知久平の夢が実現する事はありませんでした😢
終戦後は他の工場と同様、三鷹の土地・建物は全て米軍に接収され、その後大半は国際基督教大学および関連施設に売却されました
研究所の建物は一部改修を経て今も大学の敷地内に残っており、本館として使用されています

また、知久平が晩年疎開の為都内から転居し、その生涯を静かに終えた泰山荘(国の登録有形文化財)も大学構内に保存され、年に一度一般公開されているそうです(残念ながら母屋は消失😢)
※今年の公開日は10月11日(土)、12日(日)のようです
【補足】泰山荘は歴史的価値が高く、中島飛行機が買収する際、旧所有者が泰山荘を残す事を条件に応じたそうです
中島知久平はその約束を守りました(失火による母屋消失が残念です)
当時の試作工場を中心とした現在のSUBARU東京事業所およびSTIギャラリーは、完成予定地の約1割ほどしかなく、計画が如何に壮大だったかわかりますね

一方、実際に航空機用エンジンを製造していた武蔵・荻窪両製作所はどうなったのか?
終戦時に機密文書はすべて廃棄され正確な事は分かりませんでしたが、戦後の聞き取り調査で少しずつ分かってきました
その他の工場について
①武蔵製作所(西工場・東工場)
1944年(昭和19年)11月23日、資材不足・人手不足で生産量が落ちてきた工場の上空に米軍機B29が襲来し工場を爆撃しました
これが首都東京に対する初めての攻撃(空襲)でした
事前に偵察飛行を行い工場の位置や各建物の役割等を入念に調査した上での攻撃でした
(その②で掲載した航空写真は米軍偵察機によるものです)
本館にそびえるシンボルの時計塔は無残に破壊され、工場にいた作業者、周辺の住民が犠牲になりました
その後も攻撃は続き、のべ9回の空襲により徹底的に破壊され、学徒動員で従事していた学生を含む多くの方が命を落としました

終戦後、土地は継承会社の富士産業から武蔵野市に譲渡
野球スタジアムや米軍住宅など様々な形で利用されたのち、現在はNTT武蔵野研究センターや武蔵野市役所、武蔵野中央公園、旧公団(UR)住宅など市民の憩いの場になっています

②荻窪製作所(旧東京工場)
「航空エンジン発祥の地」である荻窪製作所は前述の武蔵製作所とは異なり、大きな空襲を受ける事無く終戦を迎えたそうです
(戦時中は部品工場だった為、攻撃から逃れた?)
終戦後、中島飛行機が解体された際に富士精密工業となり、富士重工業への合併には参加せず独自の道を歩みます

その後、プリンス自動車工業となりスカイラインやグロリアを世に送り出すも、経営不振により1966年(昭和41年)に日産自動車に吸収合併、日産荻窪工場になります(スカイラインがSUBARUの遠い親戚と呼ばれる所以です)
昭和41年といえばひのえうま、というかスバル1000がデビューした年です
1998年(平成10年)に日産自動車は荻窪工場から移転し、跡地は杉並区が防災公園と公営住宅として活用
周辺には病院(中島時代からのもの)や警察署もあり、避難場所として地域から愛されています

また、中心となる桃井原っぱ公園内には「旧中島飛行機発動機発祥之地」という記念碑があります

※武蔵野中央公園には"原っぱ広場"があり、偶然にも両者は"原っぱ"でつながっていました
現在でも旧中島飛行機の名残を残す建造物(跡地を含む)があるらしいです
スバぞうも時間をとって探索してみようかなと思います
以上、荻窪から三鷹にわたる中島飛行機エンジン工場の30年の歴史を中心に3回に分けてお送りしました
中島飛行機は戦争が無ければどうなっていたのか?戦争があったからこそ巨大化したのか?
今となっては誰もわかりませんが、激動の時代だったことは間違いありません
あらためてお亡くなりになった方々に対しお悔やみを申し上げるとともに、現在の平和に感謝したいと思います
今回はいつもと違った角度からお送りしましたがいかがでしたでしょうか?
感想などいただけますと幸いです(キビシイのはできればご勘弁😅)
おしまい
参考資料:〈研究ノート〉中島飛行機三鷹研究所-その建設まで-
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投稿を表示もう1枚。
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投稿を表示すばぞうさん、【うんちく】楽しみに読ませていただいています。
特にあわせたわけではないのですが、3日に工場引き込み線跡を散策しました。
初めは、武蔵境駅からの支線で、途中で三鷹駅からの支線になったようですが、どちらの支線跡もきれいな遊歩道で残っていました。
(最後は、NTT技術資料館を見学)
また、いろいろと教えてください。
画像は、遊歩道途中の解説パネルです。
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投稿を表示スバぞうさん、こんばんは♪
また遊び呆けておりました😆
3回に渡る中島飛行機、泣けてきました
「ヒコーキ野郎が作ったクルマ」を読んだ時に流した涙と同じです。
何なんでしょうね…
悔しいのと凄い情熱に感動するのと
色んな思いが交錯しますね。
激動の日本、戦争に翻弄された時代
辛い時代をよくぞ生き抜き、その後の高度成長期時代の目覚ましい発展に貢献された先人達には感謝しかありません。
ものづくり日本…これからも輝き続けてほしいですね✨
スバぞうさんのうんちく、これからも楽しみにしています😆
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投稿を表示スバぞうさん🐘、おはようございます😊
中島飛行機の東京工場のおはなし3回にわたり、とても勉強になりより詳しく知ることができました✨
そして、なんとも壮大な都市構想の計画にロマンを感じました✨
戦争のため実現できなかった計画が実現していたら、今どうなっていたのか見たかったですね。
そして、戦争によって犠牲となられた多くの方々がいて今の平和な暮らしがあるということも忘れてはいけませんね。
スカイラインとSUBARUが遠い親戚と言われる理由が、そういうことだったのか〜と知ることができました✨
泰山荘にも行ってみたい😆
いつも、ありがとうございます✨
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投稿を表示おはようございます☀
まさか、ディズニーよりも広いとは!勉強になります。
スケールの大きさに驚きましたΣ(・ω・ノ)ノ
【全国87人のうんちくファン(推定)】・・・誤
【全国87万人のうんちくファン(推定)】・・・正